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Vol.13 懐かしい声

「リコさん。なんだかボーっとしてませんか?」
  そうアヤコちゃんに声をかけられ、また知らず知らずのうちに考え事をしていたことに気付いた。
  わたしは今、前川さん、アヤコちゃん、ケイスケと一緒に、今度のイベントのクライアントである保険会社の会議室にいる。予定の時間より早く着いたので、先方の担当者が来るまで待っているところだ。

「このところ寝不足の日々が続いていたからね。でも大丈夫よ」
  そう言って、わたしはこれから行われる打ち合わせに向けて、気合い充分であることをアピールするように背筋を伸ばした。
「朝ご飯はちゃんと食べてきたのかな?」
  前川さんのおどけた言い方に笑って「はい」と返事をすると、来客用として出されたホットコーヒーの入った紙コップに両手をそえ、手の先で温度を感じた。

  大丈夫。提案書は今日までに、ちゃんと前川さんに指摘された部分を修正したし、予算も提示された金額に収めることができた。企画の内容も気に入ってもらえる自信がある。あとはいつものように落ち着いてプレゼンするだけだ。

  だけどわたしの心は今、違う不安で覆いつくされていた。シンイチからのメールが届いてから今日で三日もたっているのに、わたしからなにも返事をしていなかったのだ。もしかして怒っていたらどうしよう、あるいはずっと返事を待っていたら。そう思うと、とてつもない失態をおかしてしまっているような気がして、落ち着かなかった。


  本当はあの朝、すぐにでも電話をかけて、なつかしいシンイチの声が聞きたかった。そしてできることならば、会わなかったあいだにおきた出来事や、感じたことを語り合いたかった。だけどそれをしなかったのは、決して気をもたせようとしたわけではない。シンイチがわたしになにを話したいのか考えたときに浮かんだ最悪の可能性を前に、おじけづいてなにもできなかったのだ。

  最悪の可能性。それはシンイチからの結婚報告。

  シンイチにはすでに新しい彼女がいて、以前電話でその彼女本人から近いうちに結婚するかもしれない、という話は聞いた。ただそれは、彼女から一方的に聞いただけで、完全に信頼できる話ではない。だけどもし本当の話だったら?シンイチはそのことを伝えたいのでは?そう思った瞬間、サッと血の気がひいて目の前が真っ暗になった。

  最近少しずつ前を向いていけているような気がしていたのに、あいかわらずシンイチへの未練をたちきれていない自分を自覚せざるをえなかった。こんな状態で、シンイチから結婚するなんて話を聞いたら、きっと心がバラバラになってしまう。

  あのとき見た夢。わたしに差し伸べられた手は、シンイチのいない未来への導きだったのかもしれない。そんなのはイヤだ。だからわたしは、行き先不明のバスにいつまでも乗っているほうを選んだ。そしてそんなどっちつかずの選択は、大きな不安となって今のわたしを苦しめていた。

  わたしは気持ちを切り替えるために、決してため息にならないように、下を向いて大きく息をはいた。顔をあげた瞬間、だれかの視線に気付いてとなりを見ると、こちらを見ていたケイスケと目があった。ケイスケが気まずそうに目をそらしたとき、担当者が入ってきた。


   それから二日後。クライアントから、プレゼンの結果の連絡が入った。そしてシンイチからのメールを放置してから五日がたっていた。
  企画の内容はほぼ問題なし。ただ、イベントの構成プログラムの中に、予算の問題で削ることにしたエンターテイメントショー、つまり著名な歌手やアーティストによるライブショーを、やはり入れてほしいという条件付きだった。

「やっぱりエンターテイメントがないとダメだったか。かといってこれ以上、予算も出ないんじゃなあ」
  さすがの前川さんも、少し困った様子だった。だけど、こんなふうにクライアントの意向によって、構成プログラムが変わることはしょっちゅうある。そういうときは、今まで決まっていたことにこだわらず、すぐに柔軟に対応していかなければ先へ進まない。ところが、ケイスケが一見それとは逆にみえる解決法を提案した。

「ボク、やっぱり外注費用の面で、もうちょっと下げられないか再度検討してみます」
  だけどその提案は、わたしが一度きびしくダメだしをしている。なのにまた持ち出してくるなんて、どういうつもりだろうと思っていると、わたしの気持ちに気付いたのかケイスケが付け加えた。

「新しく外注先を探すんじゃなくて、いつもお願いしている業者に、今回だけ安い値段で請け負ってくれないか交渉してみようと思うんです。これまでの付き合いもあるし、やっぱりこのご時世ですから、ちゃんと説明すればきっとわかってくれますよ」

  最近のケイスケは、以前よりもまして社会人として自信を身につけていることが、話し方や発言の内容から感じられた。それが空回りにならなければいいが、と先輩として余計な心配をしつつ、なにごとも経験だと思い静観することにした。

「わかった。じゃあ、外注先との交渉はケイスケにまかせよう。友部さんは、表彰式企画の準備をすすめてくれるかな。我々は、ショーのキャスティングを考えよう」
  わたしとアヤコちゃん、そしてケイスケが、前川さんの指示にうなづく。この瞬間から今度行われるイベントは、企画の段階から具体化させるという、次のステップに入った。わたしの恋愛だけがなにも進んでいなかった。


  さっそく外注先の会社へ交渉しに行こうとするケイスケと、廊下ですれ違ったので、「いってらっしゃい」と声をかけた。するとケイスケは、まじめな顔でわたしと寄り添うくらいの距離に近づき、そして声をひそめた。

「このあいだの男、あれからまたつきまとわれたりしていませんか?」
  いったい誰のことだろうと少し考えて、それはこのあいだ会社までわたしに会いにきた、マサキのことを言っているのだとわかった。
  シンイチからのメールで、すっかりマサキのことなど忘れていたわたしは、ケイスケの心配がなんだか的外れに感じながらも、サービス精神で深刻そうにうなずいてみせた。すると、ケイスケはわたしよりさらに深刻そうな顔をして、
「困ったことがあったら、すぐに言ってきてください」
  と力強く言うと、どこかヒーロー然とした様子ででかけていった。

  その後ろ姿を見ながら、すでにシンイチのことで困ってるんだけど、と心の中でつぶやいた。だけどケイスケには言えない。やっぱりケイスケには、会社の先輩として情けないところを見せたくなかった。そこでわたしは考えた。そうだ。情けないところを見せても困らない人に相談してみようと。



  その日の夜。わたしは恋の悩み相談をするには、うってつけの人物に電話をかけた。
「もしもし」
  相手は案外、すぐに出た。
「マサキ?今だいじょうぶ?」
「おお」
  少し怒ったような声だった。確かにほんの数日前、会社までわたしに会いにきた彼を、冷たく追い返してしまったのだ。無理はない。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「なに」
「やっぱりこういうこと聞けるのはマサキだけだなと思って。その、元彼のことなんだけど」
「へ?」

  少し間があって、受話器の向こうから、マサキが大笑いする声が聞こえてきた。
「ちょっと。なんで笑うのよ」
「いや、リコらしいなと思って。おう、どうしたどうした」
  マサキの声から怒りの色が消え、完全に興味本位一色になった。

「ねえ、なんか楽しんでない?」
「楽しんでる。いいからつづけて」
「こっちは真剣なんだから。もう。笑わないって誓ってよ」
「だったらそっちも年下男とつるんでオレをやっかい者あつかいしないって誓えよ。このあいだの、オレ相当傷ついたんだからな」
「だって、それは」
  マサキがチサキちゃんと簡単に寝たりするから、と言いかけて、今そのことを言及するのは得策ではないと思いなおし、
「わかった。もうマサキのこと、やっかい者あつかいしない」
  と言うと、マサキの満足そうなふくみ笑いが聞こえた。わたしは早速、シンイチからメールが来たのにずっと連絡をしていないという経緯を説明した。

「なんで連絡しないんだよ。まだ元彼のことが好きなんだろ?」
「だって結婚の報告だったらどうするのよ。そんなの悲しすぎて、きっと受け止められないもの」
「なに言ってんだ。そんなの絶対に無いって」
  絶対のところにアクセントをおいて、マサキは強く否定した。

「男がわざわざ元の彼女に結婚の報告なんかしないって」
「だって、シンイチは優しくて律儀なところがあるから、ケジメという意味で」
「優しい男だからこそ、そういう人を傷つけることをわざわざしないんじゃないか。絶対に結婚報告なんかじゃない」
  マサキに聞いてよかった。やはり男心は男に聞くのが一番だ。

「じゃあなんで連絡してきたんだろう。話したいことって一体」
「男には、昔の女にふと連絡がとりたくなる瞬間があるんだよ」
「それはどういう意味で?」
「どうって、まあ、懐かしくなるんじゃないか?あいつってあんな感じだったよなーって感覚で」
  なんだかあやしい理屈だったが、マサキに言われるとそういうもんだという気がしてくる。わたしはこのあと、シンイチに電話をかけてみようと決心した。

「ありがと。おかげで勇気がでた」
  と、わたしが言うと、マサキは少しだまったあと、
「やっぱりリコとは、こういうのがいいよな」
  と、しみじみと言った。



  マサキとの電話を切ったあと、わたしは緊張しながらシンイチへ電話をかけてみたが、なかなかつながらなかった。
  やっぱり時間がたちすぎていたのだ。もうわたしなんかと話をしたくないのかもしれない。諦めて切ろうとしたとき、電話がつながった。

「もしもし」
  心臓がはねあがる。愛しいシンイチの声が体中に染みわたった。
「あ、えっと、リコです。あの、このあいだ」
  緊張してきちんとした言葉がすぐに出てこなかった。シンイチが電話の向こうで、わたしの次の言葉を待っていた。

「ごめんね。メールもらったけど、すぐに返事しなくて」
「ああ、いいよ。別にたいしたことじゃないから」
  たいしたことじゃないと聞いて、わたしはホッとした。やっぱり結婚報告じゃなかったんだ。

「あ、そうなんだ。なんだったの?」
「実はオレさ、自分のブランドをいよいよ立ち上げることになって」
「え?」
「それで、一応そのこと伝えておこうと思って」
「うそ、すごいじゃない!」
  思わず大きな声が出てしまった。自分の洋服のブランドをもつ。それは付き合っていたときから、ずっとシンイチが語っていた夢であり、実際に着々と準備もしていた。その夢をついに叶えるなんて。わたしは自分のことのように嬉しくなって、むねが熱くなった。
  つづく...

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