Vol.18 落ちない女
冷えたような寂しさが、胸を覆っていた。わたしは杉浦さんの家を出てから、すぐには宿泊するホテルに行く気になれず、近くのカフェに入った。だけど熱いブラックコーヒーも、店内の騒々しさも、わたしの中に宿ってしまったやりきれなさを癒してくれなかった。
美津子さんは言っていた。正治さんは、順子さんが大人になってからのことをもうあまり覚えていないのだと。
では父親の不器用な愛情に気付いた娘の感謝の気持ちは、月日とともにもやのような思考の中に沈みこもうとしている父親に、もう二度と届くことはないのだろうか。そして、娘にどう愛情を表現していいのかわからなかった父親は、本当は大切に思っていたと伝えることもないまま、いつか娘が小さかったころの思い出すら忘れてしまうのだろうか。
すべては時間とともに無になってしまう。それは杉浦さんの家族に限った話ではなく、わたしだって同じだ。じゃあなんのために、恋したり仕事したり、悩んだり喜んだりしているんだろう。そう思ったとたん、この広い世界でたったひとりぼっちになってしまったような気持ちになった。こんなことならケイスケを出張に同行させればよかった。
誰かに大丈夫だと言ってほしい。わたしはなにかに突き動かされるようにカフェを出ると、携帯を取り出してシンイチに電話をかけた。
だけど数回呼び出し音がなると、留守番電話に変わってしまった。たまたまかもしれないが、わざと出ないようにしているのかもしれない。このあいだ、すこし電話で話すことができたから、少し距離が縮まったと思ったのはわたしの勘違いだったのだろうか。ますますわたしのなかの孤独が大きくなっていく。たまらなくなって今度はマサキに電話をかけた。
「リコから連絡くると思った」
電話に出るなり、そうマサキが言った。
「どうして?」
「慣れない土地でひとりでいると寂しくなるだろ。一緒に夕飯でも食べようぜ」
「今どこにいるの?」
「駅前の●●ホテル」
それはわたしが宿泊する予定のホテルより、格段レベルの高いホテルだった。
「ロビーでまってるよ。ここのホテル、最上階にバーがあってそこからの眺めが最高なんだ」
「ねえ、それよりも...」
今朝、いきなり新幹線の中にあらわれたときは迷惑だとしか感じなかったが、今は来てくれてよかったと思った。

「なあ。オレ、安いワイン飲むと、次の日あたまが痛くなるんだけど」
「贅沢いっちゃって。学生のころは、ワインの味なんて全然わからなかったくせに」
一目で高価なものだとわかるホテルの部屋の絨毯の上には、コンビニで買ってきたスナック菓子やおつまみや缶ビールが無造作におかれている。わたしとマサキは、キングサイズのベッドに寝転んだまま、1本980円のワインを紙コップで乾杯をした。
「たまには学生のころに戻るのもいいでしょ」
「昔を懐かしむなんて、歳をとった証拠だぞ」
「うるさいなー。マサキだって同じ歳なんだからね。おっさん」
「おっさんって言うな」
気を遣わなくてもいい男友達とのどうでもいい会話が心地いい。
「でもなんで急に学生のころの家飲みの再現なんだ?」
わたしとマサキが同じゼミに所属する大学生のころ、しょっちゅうゼミ仲間のだれかの家に集まっては、朝までくだらない話をしながら飲みあかしていた。わたしはそれを急にやりたくなったのだ。
「過去の楽しかった思い出を忘れないためよ」
「なんだよそれ」
文句を言いながらもマサキはくつろいだ表情でワインを飲み干した。
「だってわたしも、いずれおばあちゃんになるでしょ。そしたらいろんなことを忘れちゃうのよ。そんなの寂しいじゃない」
「それで覚えておきたいのが、学生のころのくだらない飲み会だって?」
「まあ、忘れたくないもののひとつではあるわね」
ふーん、と言いながらマサキはごろりと上を向いて、少し考えるような顔をしたので、
「今まで生きてきたなかで、絶対に忘れたくないものってなに?」
と聞いてみた。
「うん、ちょうどそれを考えていたんだけど...」
そうマサキが言ったとき、サイドテーブルに置いてあったわたしの携帯が鳴った。この着信音はシンイチから。わたしはパッととびおきると携帯をつかんだ。
「なんだよ。例の年下くんか?」
と、マサキがからかうように言ったが、顔色の変わったわたしを見てすぐに察したようだった。
「ああ。元彼のほうか」
わたしはおもわず姿勢を正すと、マサキに釘をさした。
「ちょっと。しばらく静かにしててよ」
「なんだよ。ゼミの飲み会中にほかの男との交流は禁止だぜ」
わたしはそんなマサキの言葉を無視すると、せっかくかかってきたシンイチからの電話が切れてしまわないうちに、通話のボタンを押した。

「もしもし」
動揺して声が震えてしまった。
『あ、オレだけど。もしかしてさっき電話くれた?』
「ああ、そう。うん、電話した」
『そっか。なに?』
とくに用はなく、無性にさびしくなって声が聞きたくなったとは言えなかった。
「あの、ちょっと仕事でトラブルがあって、相談しようかなと思ったんだけど、でも解決したから大丈夫」
嘘にならないよう慎重に言葉を選んだつもりだったが、なんだかちぐはぐな説明になってしまった。
『そう。だったらいいんだけど。今仕事の途中でゆっくり話せないんだ』
このとき、マサキが企んだような顔で後ろからわたしににじりよっていたが、わたしは電話に集中していたおかげで気が付かなかった。
「そっか、ごめんね。わざわざ電話してくれてありがとう。わあっ!」
ふいに腰のあたりをマサキにくすぐられて、おもわず大きな声が出た。
『なに、どうしたの?』
「いいえ、なんでもない。ごめんなさい」
わたしは慌てて腰にまわされたマサキの手をふりほどいた。だがマサキは今度はすぐ隣でわざとらしい大きなくしゃみをした。
『...だれかいる?』
「いや、その...」
『男の人の声みたいだけど』
「あの、友達と一緒なんだけど、酔っ払ってふざけてるだけだから」
『ふーん』
シンイチの声がどことなく不機嫌になった。
「あ、じゃあ切るね。電話ありがとう。仕事がんばって」
『わかった』
せっかくのシンイチからの電話だというのに気の効いたことも言えずに、こちらからあわただしく電話を切ってしまった。わたしは頭にきてマサキをにらむと、マサキはニヤニヤと笑ってこっちを見ていた。
「ちょっとどういうつもりなのよ!」
わたしは携帯をほおりなげると、抗議の意味をこめてマサキの肩のあたりを叩こうとした。
するとマサキはその手をとってわたしを引き寄せたので、自然にベッドのうえでわたしがマサキの胸に顔をうずめて抱き合うかたちになってしまった。あわてて腕の中から逃れようとしたが、それをさせまいとわたしの肩にまわされたマサキの腕に力がはいった。
「なによこれ」
わたしは動揺を悟られないよう、ムードのかけらもない低い声で言った。
「さあ。なにかなあ」
どういうつもりなのか、マサキのほうもそっけない声で言った。
「どうする?おばあちゃんになっても忘れられない思い出つくってみる?」
少しの沈黙のあとマサキが言った。それがいったい、冗談なのか本気なのかわたしにはわからなかった。だけどその選択をわたしにさせるところに、マサキのずるさを感じる。のってもいいし、おりてもいい。わたしは試されているのだ。

「ちょっと。酔っ払うのは早すぎるんじゃない?離してよ」
そう言うとマサキはあっさりとわたしを解放した。どうやらのらなくて正解だったようだ。
「もう。そんなことばっかりして、彼女に悪いと思わないの?」
マサキには22歳の彼女がいる。もしわたしが彼女だったら絶対に許せないと思ったので、そう聞いた。
「あ。オレ、あいつとは別れたよ」
「うそ、いつ?」
それは初耳だったので驚いた。
「去年の年末くらいかな」
「えー。もう1ヶ月も前じゃない。なんで黙ってたの?」
「なに言ってんだよ。ずっとオレのメールや電話を無視してたくせに。そっちが知る機会を拒否したんだぞ」
マサキはすねたように言うと、床にころがった缶ビールに手をのばした。確かにチサキちゃんとのことで、ここしばらくマサキからの接触を拒否していた。
「なんで?なにが原因?」
「まあ、いろいろとバレちゃってさ。なんで女ってのは、こっそり携帯を見たりするのかね。あんなの見たっていいことはひとつも無いのに」
「バレたって、それってチサキちゃんとのこと?」
そう考えると時期からして辻褄があう。マサキは、「そうだ」というように缶ビールを飲みながら、空いたほうの手でわたしを指さした。
「じゃあ彼女と別れて、今はチサキちゃんと付き合ってるの?」
マサキはため息をつくと、下を向いて首をふった。
「オレは付き合ってもいいと思ってるし、そうチサキにも言ったんだ。でも束縛されるのはいやなんだって。なんだかオレのほうが遊ばれてるってかんじだよ」
わたしは驚いた。知り合って今日まで、こんなに自信のなさそうなマサキの表情を見るのははじめてだったからだ。
つづく...
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