Vol.7 クリスマスイブ
一本の電話がわたしに与えた衝撃は、半年前にシンイチに別れを告げられたときよりも大きかった。いっときはお互い、別々な道を歩くことになったとしても、いつかその先はつながっていると思っていたのに。
『どんな関係もいつかは終わる』
そんな言葉がむなしくわたしの心にひびいた。
わたしは泣きながら携帯からシンイチの番号とメールアドレス、そして保護してあったシンイチからのメールをすべて消去した。そうしたのは悲しみや怒りなどの感情に動かされたからではなく、それらのものがこれから先うっかりわたしの目にふれて、傷つくことのないようにするためだった。そのときのわたしは、そんなふうに少し先の未来の自分を守らなくてはいけないほど打ちのめされていた。
離れていってしまったシンイチに、心の中で問いかける。
そっか。わたしじゃなくていいんだ。ほかの誰かと幸せになるんだ...
大粒の涙がポタポタと手の上に落ちた。

どんなに大きな喪失感を心にかかえていても、時間は止まってくれない。絶望の週末が過ぎると月曜がやってきて、当然のようにわたしは会社に行かなくてはいけなかった。プライベートの問題で仕事をおろそかにすることは許されない。とくに30歳という大人の女にとっては。
会社にいるときは何も感じないように心を閉ざし、まるで機械にでもなったかのように淡々と仕事をこなした。都合がいいことに数日後には、わたしの会社が企画運営する年内最後の大きなイベントが控えていたので、やることはいっぱいあった。必要な資料の作成、関係スタッフとの細かい打ち合わせなど、感傷的になる隙を与えず次々とそれらのために身体と頭を使っていたおかげで、いつもよりも仕事がはかどった。
そんなとき一瞬自分は案外強いんじゃないかと思う。だけどそれは気のせいで、うっかりすると感情の波が押し寄せてきた。
きっかけは、案外そこらじゅうにころがっていた。社内でかかっているラジオの音楽や、インターネットのニュースサイトの記事、会社の人とのふとした会話の中。
ああ、この曲。わたしは好きだったけど、シンイチはあまり好きじゃ無いって言っていたっけ。
この場所。わたしの誕生日にレンタカーをかりて一緒に遊びにいったなあ。
お正月はシンイチは実家に帰るのかな。それとも新しい彼女と旅行でもいくのかな。
少しでもそんなことを考えてしまうと、あとはどうしようもない深い悲しみがおそってきて、シンイチに会いたくてたまらなくなる。涙が自然とこみあげてきて困った。
どうしてもこらえきれなくなったときはトイレの個室で泣いた。化粧がくずれて泣いていたことが他の人にばれないよう、ハンカチを両方の目もとに押さえながら、上を向いて嗚咽をこらえた。そうしていると、のどの奥がキーンと痛くなる。わたしは苦しみにたえながら、明るい薄グリーンのトイレの天井をにらんだ。
負けないで。これからお客と会うんでしょ。あんまり泣くと目が腫れちゃうじゃない。頑張って。今すぐ平常心を取り戻して。
そして、ふと思った。今この瞬間、わたしと同じように失恋の苦しみにたえながら一生懸命仕事をしている女性がどれだけいるんだろう、と。
あなたも負けないで。おもわず見えない相手にエールを送る。それは普段なら絶対思いつかないことだった。

会社で我慢している分、家に帰ると一気に脱力した。化粧もとらずそのままベッドに倒れこみ布団に顔をうずめる。くぐもったわたしの泣き声と、いろんなマイナスの感情が部屋中を満たした。
もしかしてわたしはシンイチと別れてから、あまりにもぼんやりしすぎていたのではないだろうか。だって前にシンイチは言っていた。「オレは来るもの拒まず、去るものは追わないタイプなんだ」って。もっとこっちからたくさん連絡をして強引でもいいから復縁にもっていくべきだったんだ。
それにあの電話の女。すごく気が強そうだった。きっと積極的にシンイチにアプローチをしたに違いない。シンイチはどちらかというと受身な性格だから流されたんだ。バカだな、わたし。自分の感情を我慢せずにもっと素直になればよかったのに。
すでに過ぎ去ってしまった場所に戻りたくて、でももうそれができないことが悲しくて、自分のとった行動を思い返しては自分を責めた。今のわたしには、そばにシンイチのいないこれから先の未来に、なにか幸せなことが待っているなんてとても考えられなかった。
あまりに辛いので、マサキに連絡をして話を聞いてもらおうかとも思った。あるいはチサキちゃんに。
だけど付き合っている人がいるのに、すんなりと身体の関係を持ってしまうような二人に、今のわたしの気持ちなんて絶対にわかりっこない。きっと二人からみたら、わたしなんて恋愛に振り回されているバカな女なんだろう。そしてこう言うに違いない。恋愛に依存しすぎ。そんな男は忘れて次に行こう、と。
だけど絶対に誰にも、この気持ちを軽々しく扱われたくなかった。涙が出るほど大好きで大好きで、忘れられないものは忘れられないのだ。
シンイチを幸せにしてあげられるのはわたしだけだと思っていたし、そのためにはなんでもしてあげたかった。そしてシンイチのすべてが欲しかった。きっともう二度と、こんなに誰かを大切に想うことはないだろう。結局わたしは、この気持ちを誰かにわかってもらおうとはせず、自分だけの悲しみの殻に閉じこもることを選んだ。

それからしばらく、悲しみの中に生きながらも余計なことを考えないよう仕事に没頭していた。おかげで、年内最後のイベントは成功に終わり、わたしは各仕事関係者から大きな信頼を得ることに成功した。クライアントからは、またなにかあったら是非君に頼みたい、女性なのに男性と同様かそれ以上に仕事ができる、などの評価の言葉をもらった。わたしはそれを、どうでもいいという気持ちで聞いていた。

大きなイベントが終わった社内には、すでに仕事納めをしてしまったかのような停滞した空気が流れていた。
つられてわたしも少しのんびりとした気持になり、今日は一日ゆっくりと書類整理でもしようと思い、種類入れボックスをとりに立ち上がったとき、ふと、打ち合わせスペースに置いてある、誰かが飾ったらしい小さなクリスマスツリーが目に入った。途端にのんびりとした気分はどこかへ行き、胸が塞いだ。今日はクリスマスイブだった。
そのとき、ケイスケが廊下にある自動販売機に向かう姿が見えた。わたしはおもわずその後を追った。もちろん目的がケイスケではなく、飲み物を買いにきたように用心深く装った。ケイスケがわたしに気付いて、笑顔を向ける。誰からも好かれないわけではない、ということが証明されたようでそれだけで充分救いだった。
「リコさん、お疲れさまです。今回の案件、まだ経験の浅いボクにとってとても勉強になりましたよ!」
「お疲れさま。ケイスケ君にはいろいろ手伝ってもらってとても助かったわ。どうもありがとう」
実際は誰でもできることをやってもらっただけで、別に助かったなどとは思ってはいない。だけどついケイスケにたいして、サービストークをしてしまった。多分わたしはクリスマスイブに一人でいたくなかったのだ。だから、いくつかたわいもない会話をしたあと、ついでのように何気なく聞いてみた。
「今日ってイブでしょ。ケイスケ君はどう過ごすの?」
ケイスケからのわたしにたいするアプローチを感じて以来、はじめてこちらからプライベートに関することを聞いてみた。
なんにも予定がないんですよ、とでも言ってくれたら、じゃあ軽く飲みにでも行く?と言えたのだが、ケイスケの答えは違った。
「友達に誘われてコンパ行くんですよ。イブにコンパって、やばいですよね」
そう言っているわりに、どこか楽しみにしていることがケイスケの表情から読みとれた。期待通りの返事が返ってこなかったことで、わたしは不機嫌になったと同時に、おや?と思った。好きな女に向かって嬉しそうにコンパへ行くことを報告するなんてことがあるだろうか。
確かに一度映画デートに行っただけで、それ以降、食事などの誘いなどはすべて断ってきた。そして仕事中は、職場の先輩と後輩の関係以上の親密さはいっさい出さなかった。でもだからといって、もう諦めるなんて早過ぎないだろうか。
そっか。わたしはそんなに価値のある女じゃなかったんだ。
「ふーん。彼女見つかるといいね」
わたしはつくり笑顔でそう言うと、それ以上なにもしゃべりたくなかったので、すぐに背を向け自分の席に向かって歩きだした。そういえば、わたしの予定すら聞かれなかった。もうこれ以上傷つくのはまっぴらだ。誰かに何かを期待するのはやめようと誓った。

会社帰り、クリスマスイブの夜になんの予定もないわたしは、飾られたイルミネーションがいろんな色をまき散らす街の中を早歩きで通り過ぎた。
お店はどこもかしこもクリスマスの装いをしており、すれ違うカップルたちは、まるでこの日にそうしないと損をするとでもいうように、手をつなぐか会話をするか寄り添い合うかをしていた。そうとうわたしは重症なのだろうか。なんだかそういうもの全体がバカバカしく見えた。
家の近くにきたところで、コンビニに立ち寄った。商品が陳列されている棚をひとつひとつ見ながら、わたしの知っている人たちが、今どうしているか想像してみた。
シンイチは新しい彼女と過ごしているかもしれない。マサキとチサキちゃんは今ごろ何度目かの逢瀬をしているのかもしれない。あるいは裏切りを隠しながらそれぞれの恋人と過ごしているのかもしれない。ケイスケはコンパで目新しい女の子たちを前に浮かれているのかもしれない。
わたしは彼らに対抗するために、クリスマス用につくられたプラスチックケースに入ったカップケーキを二つ手にとった。
コンビニの中には数人の客がいたが皆ひとりで、それぞれ立ち読みをしたり、レジの脇にあるおでんを選んでいたり、アルバイトの店員がお弁当を電子レンジに入れ、それが温まるまで待っていたりした。それはいつも見る、なにも変わりがない光景だった。
クリスマスイブだからといってそれに合わせた行動をとっているものと、まったく関係のない日常にいるもの。いったいどっちが寂しいんだろう。
わたしはしばらくそのことについて考えると、カップケーキをもとの場所に戻した。
つづく...
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