Vol.8 仕事と家庭
傷心のクリスマスが過ぎ、会社が冬休みにはいるとわたしはすぐに身支度をして、なにかに徹底的に負けたという気分にさせるばかりの東京から逃げるように帰郷した。
わたしの生まれ育った町はまわりを高い山に囲まれた盆地になっていて、地図の上では東京よりもはるか北に位置するわりに、毎年うっすらとつもる程度にしか雪が降らない。
のどかで、平凡で、退屈。それがずっと家やそれらのまわりすべてを含む故郷にたいしてわたしが抱いていた感想で、昔は早く抜け出したいと思っていた。だけど今では、こうして正月に帰ることのできる場所があってこころから良かったと思える。
故郷の駅に降り立つと、いつものように父が車で迎えに来ており、改札でわたしを見つけるとひょいと手をあげた。わたしは都会で働く30歳の独立した女から、あいかわらず両親に保護されている子供に戻ったような錯覚を覚えた。ここには、元カレも、会社の後輩も、男友達も女友達も、関係のない時間が流れている。
「おかえり。今年は帰ってくるのが早かったな」
そう言って父はわたしの大きなキャリーバッグを受け取ると、車のトランクを開け少し時間をかけてそれを押し込んだ。昔のように軽々と、というわけにはいかないところに月日の流れを感じて、少しせつなくなる。ひとつの会社でずっと働いてきた団塊の世代を代表するような人で、口数が少なくあまり表情を顔に出すことはないが、誰にたいしても公平さをもって接するので地域の人たちから結構信頼されている自慢の父だ。
「迷惑だった?」
そうは思っていないことは知っていたが一応聞いてみると、父は車のエンジンをかけながら静かに首をふった。母は今ごろ家で夕飯の支度をしているはずだ。父のかわりに、笑ったりしゃべったり、いろいろとおせっかいをやいたり、そういうことをすべて引き受けているような母が。

新しい年がはじまった日の昼さがり、わたしはリビングのこたつに入って騒がしいだけのテレビをぼんやりと見ていると、
「リコちゃん。シホちゃんから年賀状が届いているわよ」
と言って、母が一枚の年賀状をもってきた。
シホはわたしの高校時代からの友達で、一度もこの町から出ることなく、早くに結婚して子供を生み専業主婦をしている。高校生だった当時は一番に仲が良いというわけではなかったが、わたしが上京してからは他の友達とは自然に連絡をとらなくなっていったのにたいし、お互い真逆の生活を送っているのにも関わらず、なぜかシホとだけは友達の関係が続いていた。あまり自己主張をしない穏やかな性格をしていて、そんなところもわたしとは逆だ。
「シホちゃんの子供も大きくなったわね。もう9歳だって」
母がわたしの手元の年賀状をのぞきこんで、まるで自分の孫を見るかのように目を細めた。そこには、シホが20歳のときに結婚した素朴でやさしそうな旦那と、21歳のときに生まれた女の子と、そしてシホが仲良さそうに並んでうつっていた。
「リコちゃんも早くいい人見つけて、孫の顔を見せてちょうだい」
母は実家に帰るたびに、年頃の娘をもった親の義務であるかのように同じことを言う。だけどいつもまるで条件反射のように言うので、あまり負担には感じなくなっていた。
「うん、わかってるわよ」
わたしは適当に返事をして、朝からずっと置いてあるお節のお重に入っていた伊達巻に手をのばした。
「リコちゃんほどかわいければ相手には困らないでしょ。お付き合いしている人はいないの?」
お付き合いしていた人とは別れました。そう心の中で言う。
「大丈夫よ。それなりに仲良くしている人はいるから」
楽観的でのんびりとしている人には、どうやら相手もそう見えるらしい。母は娘の嘘を疑うことなく「そうね、きっと大丈夫よね」と言って微笑んだ。
そんな母の優しい笑顔を見せられると、心がふにゃふにゃになってずっと保護されている子供のままでいたくなる。もう実家に帰ってきちゃおうかなあ、と一瞬思った。
そのとき、こたつの上に置いてあった携帯が震えた。おそらくまた仕事関係の人から年賀メールだろうと思い、のろのろと携帯の画面を確認すると、それは1月1日に必ずくるマサキからの年賀メールだった。
『あけましておめでとう。餅、何個くった?』
そんなノー天気な文面を見て、とたんに不快な思いが胸をおそった。わたしが、マサキとチサキちゃんが関係をもったことを知らないと思っているのだろうか。いや、それとも知っていてこんなメールを送ってきたのだろうか。
チサキちゃんからあの夜の告白を聞いていらい、二人とも連絡をとっていないので真相はわからないが、どちらにしてもバカにしている。いつもならここで何度かたわいないメールのラリーが続くのだが、わたしは迷わず消去した。
「あら。彼氏から?」
「違うって。これは最低最悪の男よ」
それを聞いて母は、どんな想像をしたのかわからないが、顔をしかめてみせた。
彼女がいるのにわたしの友達と寝るような最低最悪の男からのメールに、すっかり気分を害されたわたしは、もう一度シホからの年賀状を見た。わたしがこうなりたいと思う完璧な幸せのかたちがそこにはあった。わたしはふとシホと話がしたくなり、電話をかけてみた。

次の日、最近できたこの田舎の町にしてはおしゃれなレストランで、わたしはシホを待っていた。というのも昨日かけた電話が思いのほか盛り上がり、せっかくだからひさしぶりに食事でもしながら話をしようということになったのだ。
待ち合わせの時間より少し遅れてやってきたシホは、ノーメイクで動きやすさを重視したカジュアルな格好をしていた。きっと普段からメリハリをつけることを必要としない生活をしているのだろう。わたしもいつかそんなふうになれるのだろうかと思う。
「ごめんね。わざわざ出て来てもらって。いそがしくなかった?」
わたしが最初に謝ったのは、きっとシホに愚痴を聞かせることになってしまうだろうという予感があったからだ。
「ううん、いいのいいの。主婦をやってるとね、なかなか外出する口実が無いのよ。だからこういうのって嬉しいんだぁ」
そう言ってシホは、昔から変わらないおおらかな笑顔をみせた。そのときわたしは、高校生のときのシホを思い出した。そういえばとくに目立ってかわいいわけでもないのに、結構男子から人気があったのだ。
「リコ、最近仕事はどうなの?頑張ってる?」
シホは飲めないのでウーロン茶、そしてわたしはグラスワイン、食事はこのレストランおすすめの有機野菜をつかった料理をいくつかオーダーした。
「うーん。まあなんとか。ほら、最近不況でしょ。クライアントもイベントにかける予算を削ってるから厳しいのよ。だから今までターゲットにしてなかった業種にまで営業かけたりしてる。今のところあんまり成果は見えないけどね」
「なんか、リコ、かっこいいね」
シホが感心したように言った。
「なにが?」
「わたしは社会に出て働いたことがないから、会社に行って仕事してお給料をもらうのって、本当にすごいなって思うの。そのうえリコは東京で一人暮らしをしているわけでしょ。なんだか、うらやましいな」
どうしてそんなことを言うのかわからなくて、わたしはシホの顔を見た。
「なに言ってるの。わたしから見たらシホのほうがよっぽどうらやましいわよ。好きな人と結婚できて、それに子供までいるじゃない」
シホはわたしの言葉を否定も肯定もせず、さびしそうに笑った。
「リコ、わたしね。いつも何やってると思う?毎朝、子供のお弁当と朝ご飯をつくって、そして、旦那と子供をいってらっしゃいって言って送り出すのよ。それから洗濯して掃除してお買い物して。で、旦那と子供が帰ってきたら、おかえりなさいって言って、夕飯をつくるの」
話を聞きながら、わたしとシンイチで想像してみた。それは最高に幸せなことのように思えた。
「毎日毎日それの繰り返し。でもこんなことって誰にでもできることでしょ。リコは外の世界に向けて、自分の能力を試すことができるじゃない。でもわたしの世界は家庭の中だけなのよ。たまにね、これが一生続くと思うとものすごく虚しい気持になっちゃうの」
それはしたことのない経験だったので、シホの虚しさがリアルには想像できなかったが、シホにはシホなりの悩みや葛藤があるのだろうと思った。わたしは仕事ができる環境をもっている。シホは愛する家庭をもっている。そしてわたしたちは満たされていない。人は自分に与えられたものだけで、満足するなんてことが本当にあるのだろうか。
「ねえ、シホ。わたし、今なんにもないの」
シホが先に心の中を見せてくれたおかげで、わたしも素直に打ち明けることができた。
「ついこのあいだ、恋とか愛とか、そう呼べるものが粉々にくだけちゃって、なにも持ってないの。誰かを失うってことがこんなに辛いだなんて思ってもみなかった。本当に心が痛くて切なくて、浮かんでくるのはどうしてどうしてって後悔ばかりで」
多分、シホにはこのわたしの気持ちをリアルに想像できないだろう。だけどシホがうらやましいといったわたしにも、悩みや葛藤があることをわかってもらうだけで充分だった。
「シホは家庭の中だけが自分の世界だって言うけど、その家庭が欲しくてたまらなくて、でもそれが叶わなかったわたしみたいな女もいるのよ。だからね、毎日おんなじことの繰り返しで虚しいだなんて、すごく贅沢だって思わない?」
そう言ってわたしはニッと笑った。わたしの話を神妙な面持ちで聞いていたシホもつられて笑った。辛い経験というのは誰かを励ますためにあるのかもしれない。わたしたちは、もうお互いをうらやましいなんて言うことをやめて、おいしい料理と楽しい会話でこの時間を楽しむことにした。

シホの旦那が車でお店に迎えにきたとき、時刻はすでに23時をまわっていた。一緒に車で送ってくれると言うので、これから帰ることを家に連絡を入れておこうと思い、かばんの奥に入っていた携帯をとりだし、わたしは驚いた。お店の中では気付かなかったが、マサキからの着信がいくつも残っていたのだ。シホがわたしの様子を見て、「どうしたの?」と聞いてきた。わたしは明るく「なんでもない」と言うと、実際それをなんでもなかったことにした。
つづく...
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